扇風機が一台あった夏
首をふる扇風機の前で、声を震わせて遊んだ夏の昼下がり。冷たい麦茶の匂いと、畳のひんやりした感触までよみがえります。
公開日: 2026年6月27日
エアコンが各部屋に行きわたるようになる前、夏の家のまんなかには、いつも一台の扇風機がありました。お父さんやお母さんが座る、いちばん風が当たる場所をめぐって、きょうだいでさりげなく場所取りをしたあの夏。畳の上にごろりと寝そべって、扇風機の前で「あ゛――」と声を出して、首振りの風で声が震えるのを面白がった、午後二時すぎのまどろみ。今日は、扇風機が一台あった夏のお話を、ゆっくりたどってみたいと思います。
家のまん中、扇風機の特等席
昭和の夏の家には、たいてい一台の扇風機が「茶の間」の片すみに置かれていました。三段階の風量切り替えと、首振りのボタン、それからタイマーがついていれば上等。緑色や薄いブルーの羽根、白いプラスチックの土台、金属のメッシュガード――いまの時代の扇風機とは違う、どっしりとした重みのある形でした。
夏休みのお昼下がり、麦茶のグラスを片手に、家族みんながその扇風機の前に集まります。お父さんが新聞を広げて寝そべり、お母さんがそうめんの薬味を切っている台所からも、首振りの風が届く位置。きょうだいで取り合いになることもあれば、お互いに少しずつ譲り合うこともありました。「お父さん、もう寝てるからこっちにちょうだい」「ずるい、さっき言ったでしょ」――そんなやりとりも、夏の風景の一部です。
扇風機の前でしたかった、子どもならではの遊びをいくつか挙げてみます。
- 「あ゛――」と声を出して、震える音を楽しむ
- 首振りに合わせて、左右の風を交互に浴びる
- 風で揺れる前髪を、両手で押さえる
- ぬらしたタオルを通して、ひんやり風を作る
- 下敷きを羽根の前に当てて、音を変える(危ない!)
- 蚊取り線香の煙が、風で渦巻くのを眺める
どれも、扇風機の前でしか味わえない、夏ならではの遊びでした。
畳と麦茶と、夏休みの匂い
扇風機の風が運んでくるのは、ただの風だけではありません。台所のそうめんつゆの匂い、お母さんの石鹸の匂い、押し入れから出したばかりのゴザの匂い、夕方になるとどこからともなくただよう蚊取り線香の匂い――。いろんな夏の匂いが、扇風機の風に混ざって、家じゅうを巡っていました。
畳に寝そべると、ひんやりした感触が背中に伝わってきます。ござの目があとになって背中に残るほどの、本気の昼寝。寝ているのか起きているのか分からない、ゆるやかな時間。冷蔵庫から取り出したばかりの麦茶のグラスを、おでこに当てて「冷たっ」と笑った瞬間。あの感覚は、いまどんな高機能のエアコンを使っても、なかなか味わえないものです。
また、夕方になると、お父さんが扇風機の前に陣取って、プロ野球中継を見るのも夏の風景でした。試合の合間に小さないびきが聞こえてきて、お母さんが「もう、起きてくださいね」と声をかける。首振りの風が、お父さんの団扇代わりだったのかもしれません。
いまの夏に、扇風機を置いてみる
エアコンがすっかり主役になった今でも、扇風機の風には独特の魅力があります。エアコンの冷気とは違う、自然な空気の動き。窓を開けて、扇風機を回せば、家のなかに風の道ができる――そんな涼の取り方を、もう一度思い出してみたいものです。
近年は、首振りの音もしずかで、リモコンつきの扇風機も増えてきました。けれど、私たちが懐かしく思い出すのは、あのカタンカタンと首をふる音と、少しがたついた羽根の風です。アンティーク調の扇風機を一台、ベランダや縁側に置いてみる――そんなしつらえも、夏の暮らしを豊かにしてくれます。
そして、お孫さんやひ孫さんが遊びに来た夏には、ぜひ扇風機の前で「あ゛――」を一緒にやってみてください。「おばあちゃんの声、ぶるぶる震えてる!」と笑うお孫さんの声が、新しい夏の記憶になるはずです。世代を越えて受け継ぐ、ささやかな夏の遊びです。
- 窓を開けて、扇風機で風の道をつくる
- 夕方は、ベランダや縁側に扇風機を出してみる
- お孫さんと「あ゛――」を一緒にやってみる
- 麦茶を冷やしたグラスを、おでこに当てて笑う
- 夜は首振り+タイマー、寝るころには止まる
扇風機が一台あった夏は、いまから振り返ると、ずいぶん不便で、暑くて、けれども不思議とまぶしく感じられます。家族みんなで一台の風を分け合った、あの距離の近さ。畳の上のひんやりした感触、麦茶の氷がからりと鳴る音、夕方の蚊取り線香の匂い――どれもが、私たちの体の奥に、夏という季節の輪郭としてしまわれています。
今年の夏、もしご自宅の押し入れに古い扇風機が眠っていらっしゃったら、一日だけでも回してみませんか。あの首振りの音と一緒に、忘れていた夏の景色が、ふっとよみがえってくるかもしれません。エアコンの冷気とは違う、なつかしい風が、暑い午後をやさしく整えてくれます。
もちろん、暑さの厳しい日には、エアコンと扇風機を上手に組み合わせて使うのが安心です。エアコンの設定温度を少し高めにして、扇風機で部屋の空気をかきまわす――そうすると、電気代もおさえられて、体への負担もやわらぎます。なつかしさを楽しみながら、今の暮らしにあわせて、ご自分なりの夏の整え方を見つけてみてください。